Masuk受付職員の言葉は、ロビーの明るさに似合わないほど冷たく聞こえた。 面会許可書の端が、手の中でさらに曲がった。 実際には、丁寧だったのだと思う。 声を荒らしたわけでも、追い返すような言い方をしたわけでもない。けれど、丁寧な言葉で閉じられた扉ほど、外からは開けにくい。 私は手の中の面会許可書を見た。 昨日の日付。 施設側の部署名。 面会時間。 そこには、確かに今日の十時と書かれている。「病室を移られた、っていうのは、施設内の病棟移動ですか。それとも転院ですか」 高瀬さんは声を崩さずに確認した。 職員は一度、奥の事務室を振り返った。 カウンターの向こうに、もう一人、年配の職員がいる。こちらの会話を聞いているが、出てこようとはしない。「詳細については、お答えできません」「面会許可が出てた相手に対しても、ですか」「個人情報になりますので」 想定通りの返答だった。 想定していた返答でも、面会許可書を持つ手は強張った。 個人情報。医療上の判断。本人の安全。 聞き慣れた言葉ばかりだった。「では、こちらを文書で受け取ってください」 高瀬さんは鞄から封筒を取り出した。「本日の面会許可に基づき来訪した事実、対象者が予定時刻前に施設外へ移されたと説明を受けた事実、対象者本人の安全確認と、転院または移送に関する記録の保全を求める通知です」 職員の顔が、少しだけ強張った。「少々お待ちください」 彼女は封筒を受け取らず、奥へ下がった。 ロビーに残された私たちは、ソファにも座らなかった。 壁には、季節の花の写真が飾られている。入院患者の作品なのか、廊下の奥には水彩画も並んでいた。柔らかな色ばかりだった。 その中で、私は面会許可書の折れた端を親指で押さえていた。「朝霧さん」 律が、横から声をかける。「立っています」「立っていられますか」「今それを訊かれると、少し悔しいです」「では訊き方を変え
「明日、会えなかったら」「帰ってきましょう」「……それだけですか」「そのあと、また考えます」「帰ってきたら、何しますか」 律は少し考えた。「まず、食事を」「現実的ですね」「昨日、宮野に朝食を残したと報告されました」「私のですか?」「私のもです」 思わず笑うと、律も少しだけ口元を緩めた。 そこで会話が切れた。 私は鏡の中の自分を見た。カーテンの裾が動き、壁の明るさが一瞬だけ変わった。「……榊さん」「……ええ」「手を、借りてもいいですか」 言ってから、顔が熱くなった。 支えてください、と言うより恥ずかしい。 律は一瞬だけ動きを止めた。 それから、ゆっくり右手を差し出す。 私はその手に、自分の指を重ねた。 温かかった。 律の指が私の指の間に入り、ゆっくり握られた。私は俯き、その手を額に寄せた。 彼が息を呑むのが聞こえた。今は、気づかないふりをしていたかった。「明日」 私は小さく言った。「ちゃんと会えるでしょうか」 額に寄せていた手を下ろすと、律がもう一度、指を包んでくれた。「分からないです」「またそれ」「ただ」 律は、声を低くした。「会える場所までは、必ず一緒に行きます」 それ以上は、何も言わなかった。 夜更けまで眠れなかった。 ベッドに入っても、明かりを消しても、時計の数字が少しずつ変わるのを見ていた。目を閉じると、肖像画の目元が浮かぶ。原初のカルテの文字が浮かぶ。白い病室の扉が浮かぶ。 その扉の向こうに、誰がいるのか。まだ、私のことを何も知らないかもしれない。 明け方、かすかに眠った。 夢は見なかった。 朝になり、宮野さんの飴を一つだけ口に入れた。砂糖の味が、舌の上でゆっくり溶ける。 面会許可書を
私はそっとまぶたの下に指を当てた。 廊下を誰かが通り、床板がかすかに鳴った。 似ているから何なのだろう。 似ているだけで、母娘になれるわけではない。 似ていなければ、何もなかったことになるわけでもない。 廊下で、車椅子の車輪が床をかすかに鳴らした。 分かっているのに、鏡の中の自分の顔が、急に誰かのもののように見えた。 ノックの音がした。「朝霧さん」 律の声だった。 私は慌てて手を下ろした。「入ってください」 扉が開き、律が入ってくる。手には、小さな白い箱があった。「宮野からです」「また宮野さんですか」「ええ。今回も宮野です」 箱の中には、個包装された飴と、折りたたまれた小さなメモが入っていた。 ――朝は食べられないかもしれませんから、これだけでも。 短い文字だった。 メモの文字が滲んで見え、私は一度瞬きをした。「宮野さん、優しいですね」「私より、ずっと気が回ります」「榊さんは、渡す係ですか」「そのつもりでしたが」「ほかに何かあります?」 聞くと、律はわずかに黙った。 その沈黙で、ああ、あるのだと思った。 私は箱を机に置き、椅子に腰を下ろした。「あるなら、今聞きます」「面会をやめてもいい」 言われると思っていた。 だから、驚かなかった。 けれど、肋骨の下は反射的に強張った。「明日の朝、嫌になったら帰ってきてください。入口まで行って、無理ならそこで」「逃げろってことですか」「そこまで言ってません」「じゃあ何です」「無理なら帰ってきてください。それだけです」 律は飴の箱を、私の方へ少し押した。 私は膝の上のハンカチを折り直した。「帰ったら、後悔しそうです」「後悔するかもしれません」「そこは否定してください」「できません」 律らしい返事だった。
そこで考えるのを止め、顔を上げた。「いてください」 声は小さかった。「でも、葵さんより先に私の反応を見ないで」 言ってから、自分でも分かりにくい言葉だと思った。 紙コップの水はぬるく、手の先に残った湿り気だけが妙にはっきりしていた。 律は返事を急がず、カップを持つ私の手を見た。「葵さんが話している間は、私がどう思ったかなんて、気にしなくていいですから」 ようやく言いたかったことに近づけた気がした。律は私の顔へ視線を戻した。「分かりました。まず、葵さんの話を聞きましょう」 私は紙コップを置いた。 置いたカップの縁を、指で一度なぞった。うまく伝わったか不安だったが、律はもう説明を求めなかった。 高瀬さんが、資料を閉じた。「明日の面会について、もう一点確認します」 私は閉じかけたファイルを開き直した。「葵様が何か証言されても、その場で録音・署名・確認書の作成は求めません。本人の健康状態と意思を優先します。後日、本人の同意を得たうえで正式な聞き取りを行う形にしてください」 私は一度、息を置いてから頷いた。「証人にしに行くわけじゃありません」 その言葉を口にした途端、肋骨の下が少し痛んだ。 証人にしに行くわけではない。 でも、会えばきっと、私は何かを期待する。 自分が望まれて生まれたのだと、誰かの口から聞きたいと思う。 その期待が、怖かった。 会議が終わったあと、私は自室へ戻った。 明日持っていくものは少ない。 身分証、面会許可書、施設への確認書。守り袋の写真。原初のカルテの保全番号。葵さんの肖像画の写真は、持っていかないことにした。 初めて会う人に、あなたはこの絵の人でしょう、と差し出すのは違うように思えた。◇ 私は一度、便箋を取り出した。 手紙を書くつもりはなかった。 何も持たずに行くことが急に怖くなった。 九条葵様。 そこまで書いて、手が止まる。 様、でいいのか。
青嶺療養院から面会許可の返答が届いたのは、その日の夕方だった。 白い壁には、午後の光が薄く伸びていた。 面会時間は、翌朝十時から三十分。 三十分。短いと思った直後に、長すぎるとも思った。会った瞬間に何も言えなかったら、その三十分はどう流れるのだろう。逆に、言葉が止まらなくなったら、誰が止めるのだろう。 同席者は二名まで。 医療記録の閲覧は不可。 録音・撮影は、本人または施設責任者の同意がある場合のみ可。 高瀬さんが読み上げる声は、いつも通り平坦だった。 最後の一文で、わずかに間が空いた。「対象者本人の体調により、当日中止となる場合があります」 高瀬さんの読み上げが、そこで一度止まった。 私はテーブルの上に置かれた文書を見た。施設名、面会日時、担当者の部署名。どれも整っている。整っているのに、紙の端を見ているだけで、息が浅くなる。「本人には、ちゃんと聞けているんですか」 自分の声が、少し硬かった。 高瀬さんはすぐに頷かない。「施設側の回答では、本人の状態を考慮したうえで、短時間の面会なら可能、という表現です。本人が明確に面会を希望した、とは書かれていません」「では、本人が会いたくないと言ってる可能性もある」「あります」 私は文書の面会時間へ目を落とした。 会いたくない。 その可能性を、なぜか私は考えないようにしていた。 母かもしれない人がいる。 生きている。 会えるかもしれない。 そこまで考えた時、私はいつの間にか、相手も自分を待っているような気がしていたのだと思う。 図々しい。 赤ん坊の時に引き離されたかもしれないからといって、二十四年後に突然現れる女を、向こうが受け入れなければならない理由はない。 私が黙ったままでいると、律が声を落とした。「会いたくないと言われることを考えていますか」「……分かりますか」「少し」「今は、見抜かないでください」「すみませ
「ただ、その前に、葵さんの面会の方を止めたくありません」「両方進めます」 高瀬さんが頷く。「葵さんについては、青嶺療養院へ再度、面会申入れと安全確認を行います。看護師長については、まず所在確認を進めます。確認できた場合も、本人の意思を優先します。どちらも、康生氏に直接情報が流れない経路で進めます」「そんな経路、ありますか」「作ります」 高瀬さんの声は、淡々としていた。 廊下を誰かが通り過ぎ、白い靴音がすぐに遠ざかった。 私は高瀬さんの端末に開かれた進行表を見た。知らない欄が、また一つ増えていた。「まだ途中でも、私に関わることは知らせてください」「分かり次第、ご連絡します」「私には知らせない方がいい、とは決めないでください」 高瀬さんが、ほんの少しだけ口元を動かした。「お伝えできないことがあれば、その理由もお話しして、記録に残します」「お願いします」 会議が終わりに近づいた時、葛城が椅子の背から少し身を起こした。「朝霧さん」 私は葛城へ向き直った。「原初のカルテを見れば、何か変わると思ってました」 葛城が言った。「誰がですか」「私が、です」 葛城は一度言葉を切った。「康生を止めれば、少しは戻ると思っていた。……戻りませんでした」 葛城は笑おうとしたように口元を動かしたが、形にはならなかった。 膝の上で組んだ指が、一度だけほどけた。 すぐに、また組み直した。「今さら」「今さらです」 葛城は、静かに頭を下げた。 私は、その姿を見ていた。 許す気にはなれなかった。 でも、彼がただの情報係ではない。そのことだけは分かった。 痛みから逃げ続けた人間が、ようやく痛みの前に立っている。 遅い。 遅すぎる。 ファイルは高瀬さんが保全袋に入れ、受領記録を作成した。葛城から受け取った控えは、そのまま証拠には使わない。移管先への照会
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし